物心ついた頃
私は1985年10月に静岡県の伊豆半島に長女として生まれました。記憶があるのは3歳くらいからで、物心ついた頃には、性自認は男の子でした。実家のトイレが、男女で分かれていたのですが、父と兄が入る方に自分も入りたいと言ったり、お風呂に入ると体の違いを認識してはいたのですが、自分にも父や兄と同じものが生えてくると信じていました。
いつも兄のお下がりの服を着ていて違和感はなかったのですが、保育園に行くある日の朝、母から「お願いだからこれ履いて」とスカートを見せられて、全力で「嫌!」と拒否したのですが、母がそれでもめげずに「1回でいいから履いて」と言ってきたので、根負けして、嫌々スカートを履いて登園しました。
すると、先生たちも珍しいものを見るように「あきちゃんがスカート履いてる〜」と集まってきて、恥ずかしくてたまらなくて、私は壁に張り付いて自分をなるべく隠すようにしながら、居心地の悪い1日を過ごしました。その日以降、スカートを二度と履かないと決めました。
小学校に上がっても、近所の男の子たちとサッカーをしたり、川で泳いだり、魚を手で捕まえたり、アクティブに遊んでいました。
低学年の頃までは、男女の差はあまり意識していなかったのですが、4年生の頃、健康診断でみんなで教室の前に整列して保健室に行くときに、周りの男子が上着を脱いでいたので、自分も同じ感覚で上着を脱いだら、他の女子から「よく脱げるね」と言われたり、用務員さんから「あきちゃんは女の子なんだから着なきゃだめよ」と本気で怒られて、ハッとしました。急に恥ずかしくなって、その辺りから男女の違いを意識するようになりました。
兄はミニ四駆やガンダムのプラモデルを欲しがっても何も言われないのに、自分も同じものが欲しくてお願いすると、少しおかしなものを見るような反応をされて、ある日、女の子が欲しがりそうな「シルバニア(うさぎの人形)が欲しい」と言ってみたら、すごく親に喜ばれました。
女の子らしいものを好きと言ったり、慎ましい態度で過ごしていた方が普通だし、周りにも喜ばれるんだなという考えが、無意識に浸透していきました。周りの賛同を得られる生き方をしていた方が、自分も傷つかなくて済むし、変な風に見られなくて済む。
そうやって、小学校の中・高学年あたりからは、自意識が芽生え、いったん「この言動は変じゃないかな?普通かな?」と考えてから行動するようになりました。
小学校のマラソン大会での写真。よく男の子と間違えられていました。
初恋
初恋は、小学校6年生の頃。相手は、ネーチャースクールという林間学校のイベントに参加した時に一緒になった2歳年下の他校の女の子でした。目があった瞬間に一目惚れでした。
その子とは、互いに惹かれあって仲良くなり、帰りのバスの中で手を繋いでドキドキしたりしていたのですが、特に思いを伝えることもなく、淡い初恋の思い出としてそれまででした。相手の気持ちも、今となってはどういうものだったのかわかりません。
同性の子に心惹かれてしまったことは、友だちから気持ち悪がられたり、嫌われたくなくて、誰にも打ち明けられませんでした。
当時の親友たちと、誰が好きかという話をしながら学校に通っていたのですが、その時も言えず、人気のある男子の名前を言っていました。
初恋の子に抱いた感情は、男の子に抱く好きの感情とは全く違く、大きな衝撃と、その子のことを考えている時は、遠くを見つめてぼーっとするくらい心が奪われてしまって、「ああ、恋愛とはこういう気持ちなのか」という感覚を初めて知った時でした。
ヒーローになれた中学時代
中学の時は、制服を着なければならなかったので、やはりすごくスカートには抵抗がありました。学ランを着たかったけど、それを要望する勇気もなく、心を無にして我慢して着ていました。登校するとすぐ、ジャージに着替えて過ごしていました。
小学4年生の頃からバレーボールを習っていたので、部活はバレーボール部に入りました。1年生からアタッカーとして試合に出て、県東部の選抜選手にも選ばれたので、周辺の地域ではすぐに名前が知られるようになりました。
バレーボールに熱中している時だけは、普通ではない性別違和や恋愛の悩みも忘れられて、自分らしく輝ける時間でした。それに、スパイクを決める度に歓声が上がったり、試合後に手紙を渡されて、「一緒に写真を撮ってください」、「友達になってください」などと言われたりして、友達からは「まるで芸能人と一緒にいる気分になるよ」なんて言われたりして、照れくさいけど、実はとてもいい気分でした。
中学時代も、友達と恋愛の話をすることになると、ちょっと居心地の悪い気分になって、「バレーボールに夢中だから、今は恋人とかはいらないかな」と言っていました。
でも、かわいい子からキャーキャー言われるとドキドキしていたし、逆に「そうは言っても、みんな恋愛は男の子を好きになるのだから、本気にしないようにしないと」と注意していました。
「恋はどうせ叶わないもの」と最初からあきらめていました。
進路に悩んだ高校時代
高校の部活もバレー部に入り、制服にも慣れ、無難な毎日を過ごしていました。
それが、ある日突然やってきた学園祭で、本格的な照明と音響の揃ったステージで踊ったり歌ったりする先輩たちを見て、すごく憧れて、自分もあんなステージで歌って踊りしてみたいなぁと思い描きました。
2年生の頃、友達2人を誘って、学園祭のステージで歌って踊ることを叶えて、とても気分が満たされました。練習や衣装を揃えたりする時間から本番までずっとワクワクしていました。
バレー部は厳しくて、「ステージに参加する」ということがなぜかタブーだったようで、(多分、バレー以外のことに集中するとかまけてしまうと思ったからかな)参加を決めた後に、先輩のマネージャーから参加しないようにさとされたのですが、私はケロッとした態度で、悪びれもせず参加することを貫きました。そして、自分のワクワクに従って参加してよかったなと今でも振り返って思います。この経験は、今でもトキメキのエッセンスとして生きています。
3年生の時は、男女が逆の服装をしてステージに登壇する「スタ誕」という企画を同級生が考えて、私に「学ラン着て、出てくれない?」と言われました。自分は以前から学ランに憧れていたので、「バレーの顧問の先生が良いと言えば参加しても良いかな」なんて答えて、同級生が先生に話をつけてきてくれ、なんと憧れの学ランを着て参加しました。そして、投票の結果2位という結果も残り、これもまた満足したのでした。
こんな経験もありましたし、バレーボールを一生懸命やっていたのである程度は充実していたのですが、ふとした瞬間に心が寂しくなったり、不安に襲われることがありました。
「自分はちゃんと大人になれるのだろうか」というぼんやりとした悩みを抱えながら過ごしていました。
というのも、まともに恋愛することもできず、周りの大人のように、結婚して、子どもを産んで、家庭を築くというイメージがどうしてもわかなかった。当時は今みたいに、LGBTという言葉もなく、ロールモデルとなる大人もいなかったので、世界でたった1人の悩みだと思っていました。
普通でありたいという願いから、男の人と付き合ってみたりしたこともありましたが、自分に嘘を重ねることは、傷を深めるばかりでした。
不安が大きかったので、現実的な夢や目標も描けませんでした。絵を描くことが好きだったので、強いて言えば画家になりたかったのですが、親はとても現実的なタイプの人間でしたので、そんなんで食べていけるはずがないと言われるに決まっていると思い、その夢さえも誰にも言えずに飲み込みました。
父に勧められるがままに、地元の市役所の試験を受けることにしました。担任の先生からは、「お前、先生が向いているから、体育の先生になれ」と言ってもらって、そう言ってもらったこと自体はなんだかとても嬉しかったので、一応大学に行くことも考えて、国立大学に向けた試験勉強もしていました。
でも、早い段階で市役所の試験合格の連絡がきて、大学はお金もかかるし、そんなに行きたいわけでもないしなということで、「親が楽な選択をしよう。そして、大学に行きたくなったら、自分が稼いだお金で通信教育で行けばいいや」と結論を出して、周りが受験モードでピリピリしながら頑張る中、試験勉強をやめて、残りの高校生活をのほほんと過ごしていました。
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